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2016年10月15日土曜日

タイのプミポン国王死去 カリスマ的人気で絶対権威=国民生活向上に尽力

タイのプミポン国王死去 カリスマ的人気で絶対権威=国民生活向上に尽力

タイのプミポン国王が死去されました。

タイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラマ9世)が13日午後3時52分(日本時間同5時52分)、首都バンコクの病院で死去した。88歳だった。王室事務局が発表した。死因は明らかにされていないが、感染症などで治療を受けていた。70年もの長期にわたった在位中、国民の厚い信頼と絶大な人気を誇った国王の死去で、タイ社会は重大な転機を迎える。
 死去を受けてプラユット暫定首相がテレビ演説し、新国王に長男ワチラロンコン皇太子(64)が即位すると発表した。今後、憲法と王室典範に基づき即位に向けた手続きが進められる。




JIJI.COMより
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101300853&g=int

プミポン国王死去=在位70年、現役君主最長-親日家、皇室とも親交・タイ

【バンコク時事】タイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラマ9世)が13日午後3時52分(日本時間同5時52分)、首都バンコクの病院で死去した。88歳だった。王室事務局が発表した。死因は明らかにされていないが、感染症などで治療を受けていた。70年もの長期にわたった在位中、国民の厚い信頼と絶大な人気を誇った国王の死去で、タイ社会は重大な転機を迎える。



 死去を受けてプラユット暫定首相がテレビ演説し、新国王に長男ワチラロンコン皇太子(64)が即位すると発表した。今後、憲法と王室典範に基づき即位に向けた手続きが進められる。
 プラユット氏は演説で、服喪期間を1年とし、国民に娯楽活動を30日間自粛するよう要請。「社会の平和を維持するために助け合い、何者にも混乱を引き起こす機会に利用させてはならない」と団結を訴えた。
 プミポン国王は1946年、兄のラマ8世の急死を受けて18歳の若さで国王に即位。70年間に及んだ在位は世界の現役君主の中で最も長く、18世紀に始まった現チャクリ王朝の歴代国王の中でも最長だった。
 在位中は国内を精力的に視察し、国民生活向上を目的に、農村開発など数多くの社会開発事業を自ら指揮。民主化を求めるデモ隊に軍が発砲し、多数の死傷者が出た1992年の「5月流血事件」では調停者として事態収拾を図るなど、国家の安定に大きく寄与し、国民から深く敬愛された。
 ここ数年は健康状態が悪化。2006年に腰の手術を受け、07年に虚血症や大腸の炎症で約1カ月入院。09年9月には発熱などのため入院し、13年8月に退院するまで入院生活は4年近くに及んだ。
 その後も体調が優れずに入退院を繰り返し、15年5月末以降バンコクの病院に入院。公の場に姿を見せる機会は、ほとんどなくなっていた。
 親日家として知られ、63年5月、国賓として日本を公式訪問。06年6月の即位60周年祝賀行事には天皇皇后両陛下が出席された。秋篠宮さまが鳥類研究のため頻繁にタイを訪れるなど、皇室との関係も深かった。
 14年5月のクーデターで実権を掌握した軍事政権は、今年8月の国民投票で新憲法案が承認されたのを受け、民政復帰に向けた総選挙を17年中に実施する方針だが、国王の死去はこうした政治日程にも影響を与える可能性がある。




カリスマ的人気で絶対権威=国民生活向上に尽力―民主化では限界も・プミポン国王

 13日死去したタイのプミポン国王は、70年もの長期にわたった在位中、強い指導力で国家の危機を乗り越えてきた。

 国民生活向上に貢献する施策も打ち出し、カリスマ的人気を集める国民統合の象徴として、絶対的権威を確立した。

 1927年12月、父マヒドン親王の留学先だった米マサチューセッツ州で生まれた。スイス・ローザンヌ大学在学中の46年6月、兄王ラマ8世の急死に伴い、18歳でチャクリ王朝第9代国王に即位した。

 しかし、当時の王室は32年の立憲革命で絶対王制から立憲君主制に移行して以来、威信が大きく揺らいでいた。

 スイスでの勉学を終えて51年末に帰国して以降、精力的に地方視察を繰り返し、ほぼ全国を踏破。一般市民と直接触れ合い、「開かれた王室」を実践した。「王室プロジェクト」と銘打った社会開発事業で農村開発に取り組み、かんがいや洪水対策、教育、医療支援活動など3000を超える事業が実施された。首からカメラをぶら下げ、地図を手に農村を調査する姿は、「慈父」としてのイメージを国民の間に広く浸透させた。

 王室の威信回復の背景には、国王の権威を利用して自らの権力の正当化を狙った当時の独裁政権の思惑や、インドシナに第2次大戦後広がった共産主義に対抗する意味合いもあった。

 タノム軍事政権の崩壊につながった73年10月の学生決起で、初めて政治の表舞台に登場。学生側を支持して自らの側近を首相に任命するなど、事態収拾に尽力した。

 92年5月、民主化を求める反政府デモ隊と軍・警察の衝突で多数の死傷者が出た際にも、調停に乗り出した。王宮に呼ばれた当時のスチンダ首相とデモ隊指導者が国王の前でひざまずく映像が世界中に報道され、国王の権威を鮮烈に印象付けた。

 タイの民主化に一定の貢献を果たす一方、その役割には限界もあった。多数の反体制派学生が警官隊と右派勢力に虐殺された事件を契機とした76年のクーデターや、タクシン政権を打倒した2006年のクーデターなどでは、最終的に軍部の実権掌握にお墨付きを与える形になった。

 近年は健康状態の悪化に伴って、公の場で発言する機会がめっきり減少。13年秋に始まった反タクシン派による反政府デモに端を発した政治混乱には介入せず、翌14年5月のクーデターに帰結した。

 写真撮影やジャズ演奏など多趣味で知られた。日本製のカメラや乗用車を愛用する親日家でもあった。シリキット王妃(84)との間に1男3女。 

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